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東京で講演会・シンポジウム「騎馬民族のルーツを訪ねて−高句麗と東アジア」開く

講演会・シンポジウム「騎馬民族のルーツを訪ねて―高句麗と東アジア」

 講演会・シンポジウム「騎馬民族のルーツを訪ねて―高句麗と東アジア」が17日、東京・有楽町朝日ホールで開かれた。午前中、日本画家でユネスコ親善大使の平山郁夫東京芸大学長(73)が「高句麗壁画と保存」と題して記念講演し、午後には「高句麗と古代日本」について大塚初重明治大学名誉教授、西谷正九州大学名誉教授らが演壇に立ち、シンポとパネルディスカッションを行った。平山郁夫氏は高句麗古墳壁画の世界遺産登録に協力するため、ユネスコ親善大使として97年以来8回にわたって訪朝。世界遺産登録に必要なデーター測定のための温湿測定器、ビデオカメラ、パソコン、車両などを朝鮮側に提供。さらに3年前には、世界遺産登録支援の「高句麗今昔を描く平山郁夫展」(NHK、朝日新聞社共催)を日本各地で開催、収益金を壁画の保存修復基金に充てるなど、熱心に取り組んできた。

 講演で、平山氏は今年6月、中国・蘇州で開催予定の世界遺産会議で高句麗古墳壁画の世界遺産登録が実現するだろうとの明るい見通しを述べながら、「朝鮮の故地・高句麗は古代日本のお手本だった。不幸にして、南北に分断されている朝鮮の平和統一のために、そして東アジアの平和のために、祈りを込めて世界遺産登録に協力していきましょう」と訴え、約800人で埋まった会場から大きな拍手を浴びた。

 平山さんによると、高句麗壁画とは「不思議な縁」で結ばれているという。平山さんはその思いについて「私も同じ血、同じDNAを持っているのでしょう」(朝日新聞1月1日付)と熱く語っているが、この日の講演でもその思いを吐露した。

 「私が37年前に描いた『卑弥呼擴壁幻想』(院展作)は、高句麗壁画の最高傑作に数えられる水山里古墳壁画の女性像を参考にして描いたもの。そして、その絵の発表から5年後の72年、戦後最大の考古学的発見と言われた高松塚壁画古墳が見つかった。驚いたことに、そこに描かれた『飛鳥美人』は、私が想像した通りの服装をまとった女性像。私の推測は当たっていた。やがて、師の前田青邨画伯の下で7カ月にわたって現状模写に当たった」

 こうして生まれた高句麗壁画―卑弥呼像―高松塚の女性像の3つのトライアングルによって、何かの啓示を受けるように高句麗壁画の保存に協力するようになったと語る平山さん。そして、平壌の高句麗壁画古墳を実際に見学してまた驚かされたのは、古墳内部の気温と湿度が、かつて模写に入った高松塚古墳と全く同じ気温20度と湿度97〜98%を保っていたことだった。

 「湿度が高い中で、井戸の中と同じ適温を保ちながら、1300年以上も東アジアの至宝ともいうべき貴重な文化遺産が保存されてきた。東アジアはこうした共通の深い文化の縁で結ばれている。現在、拉致問題、6者協議など政治の難問が山積しているが、高句麗文化の深い影響を受けた古代日本に思いを寄せて、不毛の論争を続けるのではなく、永い歴史の視点に立って、東アジアを見るべきだ」と語りかけた。

 また、平山さんは「現在、朝鮮側から平壌の高句麗壁画古墳研究所設立資金として30万ドルの資金援助要請が来ている」と指摘、その要請に応えるためにも日本政府の了解を取りつけたいと語った。さらに、5年前、松浦晃一郎ユネスコ事務局長が当選した際に、朝鮮が貴重な役割を果たした秘話を紹介。「決戦投票にもつれ込まなかったのは、アジア諸国に影響を持つ朝鮮のお陰。カンボジアやラオスも朝鮮に習って日本支持に回ってくれた。松浦さんの当選が決まると真っ先に祝福の握手をしてくれたのも朝鮮だった」と語った。

 平山さんはシルクロード、高句麗文化の日本最初の到達点でもある飛鳥寺について、「聖徳太子の人間形成や外交顧問として、日本の国家建設に尽力を頂いた高句麗の高僧・慧慈が管長を務めた由緒ある寺。さらに、飛鳥大仏の造立に黄金300両が高句麗王から推古天皇に送られたと日本書紀に記録されている。まさに高句麗文化は日本文化の源流であり、古代日本の黎明期に多大な影響を及ぼした。その古墳壁画は日本古代史の貴重な証人でもある。朝鮮半島との深い絆を忘れず、高句麗古墳壁画の世界遺産登録と保存に協力してほしい」と力強く呼びかけた。(朴日粉記者)

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シンポ・パネルディスカッション「高句麗と古代日本」での発言から

[朝鮮新報 2004.1.23]