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「もっと生きていたかった」−子どもたちの伝言− 石川逸子

仁川の倉庫で

「ヒロシマ・ナガサキを考える会」 500円(新口座番号00120−9−48907)

 あなたの名をたった今 耳にしたばかり
 ファン・キチョル
 今も十四歳のままの少年
 江原道平康郡の出身とか

 生きていれば
 今年七十歳

 ある日
 「明朝9時に警察署に来い」といわれ
 おずおずと出頭してそのまま 戻ってはきませんでした

 「脅され なぐられて
 貨物列車に乗せられました
 真夜中に着いたところは 仁川・芝浦通信機組立工場でした」

 キチョルに慕われた 安成得は
 半世紀後に語ります
 キチョルより二つ年上 十六歳でした
 「二百人の子どもたちがそこにいました」

 倒れても 泣いても
 竹刀でなぐられ
 夜明けから深夜まで ただただ働いた

 蚊がむらがり 湿った倉庫の宿舎
 軍犬より粗末なメシ
 一日トラック一台分の土掘り モッコかつぎ
 防空壕掘り

 「おなかがすいてたまらないよ ヒョンニン(兄さん)」
 キチョルがいいます
 ひとなつっこい目は 土色のなかで小鹿のように輝いて

 子どもたちは病気にかかりだした
 咳こみ 熱がでて 血がまじった痰がでる
 キチョルもまた病気になった でも働かねばならない

 ある日 宿舎にいるとき
 「おいっ、集合だっ、出てこいっ」
 にわかに号令がかかった

 病気の子たちは出られない
 熱の体で一日働いたのだもの
 もう一ミリも動けない
 キチョルもまた出られなかった

 日本人監督は倉庫に入っていった
 たちまち おそろしい悲鳴と
 子どもたちをなぐる音が聞こえてきた

 「倉庫にもどってみると
 子どもたちは倒れたまま 鼻血を出し
 口々にオモニィ(母ちゃん)≠ニ呼んでいました」

 キチョルは弱りきり
 鼻血を出して
 ぶるぶる震えていた

 「抱いてやると
 ヒョンニン ヒョンニン
 オモニィ オモニィ といいました」

 じっと 安はキチョルを抱いていた
 なにもできず ただ その目をみつめていた
 突然 キチョルは動かなくなった

 「目を開いたまま
 キチョルは死んでいたのです
 でも そのことが私にはわかりませんでした」

 寝ていたカマスにそのまま包まれ
 運ばれていった キチョル
 どこへ運ばれていったのか

 今 ファン・キチョルについてわかっているのは
 これだけが全てです
 享年十四歳 その名をそっと灯篭に記し 流します

 ※参考文献=戦後補償実現市民訪朝団発行「朝鮮民主主義人民共和国の戦争被害と戦後補償」

戦争被害に遭う子どもたちの側で

[朝鮮新報 2007.8.4]