合唱コンサート 「隣人と友に〜隣人と共〜」によせて |
25年前の約束 アジアの平和と共生を願い27日、東京・青砥のかつしかシンフォニーヒルズで、合唱コンサート「隣人と友に〜隣人と共に〜」が開かれる。 コンサートでは朝・日・南の作曲家たちが音楽を通して過去の歴史と向き合い、共に進むべき道を探る。当日は、在日同胞作曲家の金学権さんが、父親を捜しに朝鮮からやって来て、広島で原爆の犠牲となった12歳の少女を描いた許南麒・詩「スニのための鎮魂歌」の自作の合唱曲を指揮する。また、作曲家の池辺晋一郎さんが、朝鮮人130人余りが犠牲になり、遺体は今も海の底に放置されている山口県長生炭鉱水没事故を扱った組曲「海の墓標」(芝憲子・詩)を、林光さんが植民地時代、日本軍部に逮捕され、九州で獄死した朝鮮の詩人・尹東柱の詩「空と風と星と詩」の合唱曲をそれぞれ指揮する。合唱に栗友会合唱団。
先日、金学権さんから「スニのための鎮魂歌」によせた想いを綴った次のような一文が編集部に寄せられた。 25年前、広島・長崎朝鮮人被爆者に関する2冊の本を読み、衝撃を受けた。そして自分の肌で感じたいと思い、夏休みを利用して広島を訪れた。 5日間、親友の家で寝泊りしながら相生橋から平和公園、記念館、そして、当時朝鮮人部落があった所などを歩き、親友であった被爆同胞2世に会い、たくさんの話を聞いた。 被爆当時、市内には5万2000〜3000人の朝鮮人が住んでいたと推定される(旧内務省の記録)。そのほとんどは爆心地から4〜4.5キロ以内に集団的に生活しており、大半が日本の軍需産業で強制的、または半強制的に働かされていた。1945年、8月6日と9日、広島と長崎で原爆は彼らをも容赦なく襲ったのだ。多くの人々が犠牲となり、九死に一生を得た同胞たちも理不尽な民族差別の中、日本人と同じ治療すら受けられず、二重の苦しみを強いられてきたという。 毎年催されている平和記念行事でも、こうしたことは一言も言及されていない。そればかりか、60余年たった今も日本政府による国家的調査も、総括も、事後処置も十分行われていないのである。 そんな中、私は広島市内を歩きながら許南麒先生の詩「スニのための鎮魂歌」の頭の部分を何度も何度も繰り返し、いつしかメロディをつけて歌っていることに気づいた。
最後の日、広島朝鮮人被爆者協会の李実根先生を訪ね、「スニのための鎮魂歌」を全文作曲し送りますと約束した。東京に帰りさっそく作曲にとりかかった。もちろん広島で頭の中を流れていたメロディを主題に…。 しかし、当時は学校の教員としての職務、その後は団体職員としての仕事、そして私自身の作曲技量のなさから、作品の完成まで長い歳月がかかってしまった。引出しから出しては少し書き、またしまってしばらくしてから書き始めるという連続で、結局20年以上かかってしまった。2005年、やっと30分の曲を書き上げた私は、真っ先に李先生に手紙を出した。 手紙には20余もかかってしまったお詫びと、近いうちに必ず演奏しますとの約束を書いた。 (もっと早くこのような曲を書かねばならなかったのに…、その間どれだけの被爆同胞が恨を残しながら亡くなったか…) 27日には、志を共にする日本の作曲家たちの作品も舞台で演奏されることになっている。 「このような曲は在日の方が歌っては申し訳ない。日本人が歌うべきだ」と、日本の合唱団60人が8月の暑い中、夜に集まり、一生懸命練習してきた。 コンサートでは自分の作品は自分で指揮する。胸の中には、作曲に20年以上かかったという贖罪と、25年目にやっと約束を果たせたという安堵感でいっぱいである。これからも在日同胞の心情を、民族の心を作曲していきたい。 私の目の前では一生懸命ウリマルの発音を練習している日本の合唱団がいる。次は朝鮮半島の統一とアジアの平和、朝・日友好を、同胞オモニ合唱団と一緒に歌う日が来ることを夢見つつ、本番に向けて私はタクトを握っている。(金学権、文芸同所属) 10月27日(土)、15時半開場、16時開演。 [朝鮮新報 2007.10.17] |