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〈平壌の高句麗遺跡を歩く-中-〉 牡丹峰の絶景、乙密台、最勝台

平壌の冬景色を満喫

 平壌の美しさをうたった詩は多い。なかでも15世紀の詩人゙偉が平壌の名勝をうたった詩「西京(平壌)八詠」が名高い。詩の一節ずつをとったものが「平壌八景」として今に伝えられている。その内容は、乙密台の春、浮碧楼の月、永明寺のあかね空、普通江の送別、大同江の舟遊び、愛蓮堂の雨景、龍岳山の森、馬灘の雪どけなどである。ここには高句麗遺跡と関連するものが多い。かつては国を守るために建てられた将台(指揮所)も現在は市民の憩いの場として年中、にぎわっている。

市民の憩いの場に

絶景の地・乙密台の由来には諸説がある

 数日間降り続いた雪で平壌市内に真っ白な雪景色が広がる中、平壌城内城の北の将台だった乙密台を訪れた。乙密台は高さ11メートルの石築台の上に建てられた楼閣。6世紀の半ば、平壌城内の北側指揮所として建てられ、1714年に修築された。現在ある楼閣は朝鮮王朝時代のものだが、その「土台と城壁」の石垣の下の部分は高句麗時代に築造された。

 「乙密台という名前の由来にはいくつかの説がある」と大城山文化遺跡管理所学術研究員の李定男さん(57)は言う。

 高句麗の名将乙支文徳の息子、乙密将軍が同所を守ったので「乙密台」とよぶようになったという説。さらに風光明媚なこの地に天から「乙密神女」が降りて来て、遊んだという伝説に由来するという説もある。

 乙密台から周囲の景色を見渡すと、南東方面約200メートルのところ、海抜96.1メートルの峰に建立された将台、最勝台が見える。平壌の風致が一望のもとにおさめられる最上の地という意味で、こう呼ばれるようになったそうだ。

 現在、錦繍山全体の総称を牡丹峰と呼んでいるが、もとは最勝台のある峰を「牡丹峰」と呼んでいたという。「5月にはつつじやれんぎょうが満開になって本当に美しいですよ」と李さんは顔をほころばせながら話した。

 李さんの言葉通り、花盛りの最勝台や乙密台の美しさは言うまでもないだろうが、雪化粧をした冬景色もまた風情がある。

ひっそりと立つ僧の墓

 「三国史記」には392年に高句麗が9つの寺を建てたという記録がある。

 李さんは、「370年に中国から仏教が伝わって以来、宗教は国家のイデオロギー統治の手段として用いられた」と説明する。

 浮碧楼からはゆっくりと流れる大同江を見下ろすことができる。平壌八景にうたわれた「浮碧完月」(浮碧楼と大同江に映った月夜の風景)と「永明深勝」(あかね空に染まった永明寺一帯の風景)は浮碧楼の絶景をうたったものだ。浮碧楼のそばには一段の高さが25センチほどの石階段がある。32段の石階段は高句麗時代に築造された。高句麗の僧たちが階段を上り下りする姿を想像しながら石段を踏みしめると感慨がいっそう深まる。

 すると、ここでもうひとつの高句麗遺跡と出会うことになった。永明寺の僧の墓だという。高さ60センチほどの石の墓がひっそりと立っていた。「ここに墓が残っていたとは」。李さんも今回訪れるまで知らなかったという。墓のある場所が立ち入り禁止区域だったためだ。墓の側面には文字が刻まれており、そこには墓の由来が詳しく記されているという。「すぐにでも確認作業にとりかからねば」と李さんは意気込んだ。(文=呉陽希記者、写真=文光善記者)

〈平壌の高句麗遺跡を歩く-上-〉 檀君、東明王 始祖王の王陵を奉る

[朝鮮新報 2008.1.16]