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京都・丹波マンガン記念館が閉館 歴史伝承、真の和解願い 家族で支えた20年

 日本の植民地支配時代に朝鮮半島から強制連行され過酷な鉱山労働と苦しい生活を強いられた朝鮮人労働者の歴史を伝える「丹波マンガン記念館」(京都市右京区)が5月31日、閉館した。

生存者の証言も収集

李館長と家族に拍手を送る参加者たち

 同館は、16歳から鉱山で働いた在日朝鮮人1世の故李貞鎬さん(初代館長)と息子で現館長の李龍植さんが、強制連行の歴史を伝えるため、1989年に私費を投じ3年がかりで開館。坑道内外には人形や実際の工具が設置され、当時の過酷な労働と生活の実態を生々しく再現していた。資料館には採掘された鉱物や当時の写真、報道資料などが展示されていた。20年間で延べ20万人が訪れた。

 これまで幾度となく、京都府など地元自治体に歴史保存の重要性を訴え支援を求めたが、協力を得られなかった。「日本の暗い歴史を残すべきでない」と、差別や妨害にもあった。

 1992年のある日、警察が「捜査」の名目で、記念館入口の鎖を切って無断で進入したことがあった。李館長が捜索令状の提示を求めたが、警官たちは「捜査だ」の一点張りで去っていった。李館長は警察署に行って理由の説明と警官との面会を求めたが、「そうした警察官はいない」と突っぱねられたという。

李龍植館長

 鉱山の歴史が間違って伝えられた時もあり、李館長自ら南朝鮮に足を運び生存者たちの証言を聞き、日本の公文書や鉱山関係の資料を収集。歴史の事実確認を積み上げてきた。

 当時、丹波地域には約300の鉱山に2万本の坑道が掘られ、少なくとも3000人以上の朝鮮人や差別を受けた日本人が働いた。200キロのマンガンを5時間も運ばされるなど、酷使された様子が伝えられている。南朝鮮の生存者や家族らの証言から、日本軍による略奪、強制連行、給料の不払いなどの事実も明らかになっていった。

「最大限の抵抗」

坑内では労働の様子が再現されている

 李館長と家族、支援者らは、じん肺で苦しみながら亡くなった貞鎬さんの「朝鮮人の歴史を伝える博物館。おれの墓だと思え」という願いを受け、懸命に運営してきたが、資金難と来館者の減少により閉館を余儀なくされた。

 李館長は「日本は加害の歴史を残さないのが国益だと思っている。謝罪もせず朝鮮人への差別を繰り返しているが、本来なら日本政府が強制連行の歴史を伝える博物館を残すべきだ。父と私が20年間してきたことは何だったのか…」と無念さで声を詰まらせた。

 「毎年500万円の赤字。一度も黒字になったことがない」という同館の苦しい経営で「何度も閉館しようと考えた」。だがその度に父の言葉を思い出し励みにした。

 李館長は「強制連行の歴史を一般の人に知ってもらいたい。それがこの記念館の意義だ。これが個人にできる最大限のレジスタンスだった」と振り返り、「在日朝鮮人はこれからも日本に住み続ける。日本の植民地支配による加害の歴史を伝え、互いを知ることが和解の道だ」と力強く訴えた。

親子の歴史、出版

 閉館の日、「閉館・出版・鎮魂パーティー」が行われ、同胞や日本人ら約300人が参加した。落盤事故やじん肺被害で亡くなった労働者らに黙祷を捧げ、館内や坑内を見て回り、閉館を惜しんだ。

 集会では、京都朝鮮中高級学校高級部声楽部の生徒たちが朝鮮の歌「故郷の春」を披露するなど、追悼コンサートも行われた。

 参加者たちは、李館長と家族らに暖かい拍手と声援を送り閉館を惜しんだ。一部の支援者らは、再建を目指して鉱山の歴史研究や周知活動を続けていくという。

 京都市在住のある同胞男性は「閉館するというニュースで初めて記念館のことを知った。記念館の存在も鉱山での強制連行の歴史も知らず、何も協力できなかったことが悔しい」と語った。また、ある日本人支援者は「館長と家族の思いをしっかりと胸に刻み、歴史を広く伝えていきたい。それが日本のためになると確信している」と語った。

 閉館にあたり李館長は、同館の20年の歴史、飯場での両親の暮らしぶり、労働者の証言などをまとめた「丹波マンガン記念館の7300日」を出版した。(解放出版社、税別1800円)(李泰鎬記者)

京都・丹波マンガン記念館が閉館、強制連行と鉱山労働伝え20年

[朝鮮新報 2009.6.8]