文学散策

序  詩    尹東柱(ユン  ドンジュ)


        死ぬ日まで 空を仰ぎ見 一
   点の恥ずべきことなき
       を、
 葉あいに起こる風にも
       わたしは心苦しんだ。
 星を歌う心もて
       あらゆる死にゆくものを
   愛さねば
       そして わたしに与えられ
   た道を歩みゆかねば。
       今宵(こよい)も星が風
   に吹かれる。

(「詩で学ぶ朝鮮の心」大村益夫編訳、
1998年、青丘文化社)


祖国の朝を願う心、光複のための道を決意

  尹東柱は平壌崇実中学
で学んだ(写真は大同江のほとりにある練光亭)

 植民地の暗黒時代、1941年の作である。日本(高校)の教科書に載った唯一の詩でもある。

 これは単に自然をうたったものか? あるいはキリスト教徒としての自責の念をうたったものなのか?

 ポイントは「あらゆる死にゆくもの」が、何を指しているのかということだ。伊吹郷氏は、「生きとし生けるもの」(「空と風と星と詩」影書房、1984年)と、生命あるものすべてを愛さねば、すなわち「汝の敵をも愛せ」とキリスト教理風に意訳している。      
                                                                                                                                                 

 当時、尹東柱は朝鮮語と文字の使用を禁じられ、朝鮮の姓名まで奪われ、創氏改名を強要されてゆく状況(国家、領土、軍隊、経済中枢はすでに奪われて久しい)に大変心を痛めていた。

 そして同志社大学で学んでいた43年7月に、宋夢奎(京大生)らとともに独立運動の疑いで京都下鴨警察署に捕えられ、45年2月16日に福岡刑務所で変死をとげた。そんな彼が、のほほんと「敵」をも愛せよと書くはずはない。


         


 「死にゆくもの」は、すなわち愛する朝鮮のことである。国家、国土、軍隊、経済ばかりか朝鮮語と名前さえ「死にゆく」祖国と解してこそ、はじめてこの詩の重い実感と大きな感動が生き生きとよみがえってくるのではないか。

 詩の中の「死ぬ日まで空を仰ぎ見」は、キリストを仰ぎ見るというのではなく、祖国の空を仰ぎ見、祖国の前で「一点の恥ずべきことなきを」、誓ったものだ。「祖国への背反」は、まさに微少たりとも許されるものではないと、自らを戒めたものである。

 「葉あいに起こる風」や、「星を歌う心」の箇所も少女めいたセンチメンタルなそれでは決してない。葉あいの微風も単なる自然一般ではなく、「朝鮮の自然」に対して心痛めてうたったくだりである。つまり、李相和流の、日本帝国主義に「春さえ奪われた」悲しみのそれにほかならない。

 「星を歌う心」とは、「祖国の朝(解放)を願う心」という、決死的な思いの歌である。

 「そして」は、「したがって」という義務感を表した言葉ではなく、自発的に自分の心の要求から発して、「当然」という語感でさえある。そして、祖国光復のための道(当時良識あるインテリの歩んだ唯一の道)を歩みゆかねばと、深刻に決意している。

 だが、最後の一行で星が風に吹かれてか、見え隠れしているとうたっている。これは詩人が万感をこめて泣いている姿を表している。


         



 詩人は、はじめ詩集名を「病院」とした。痛める朝鮮をいやしてくれる病院を思い浮かべてのことだという。ともかく、空も風も星も詩も、祖国・「朝鮮」という意味が含まれていると見るべきだろう。

 尹東柱(1917〜45年)は、中国・間島、キリスト教徒家庭の出身である。35年、間島の恩真中学から平壌・崇実中学(同窓に南朝鮮の詩人・故文益煥氏がいる)に転入した。このことについては、金日成回顧録「世紀とともに(第5巻)」にも言及されている。崇実中学は、数多くの愛国人士を輩出した教育の場であった。

 その後、尹東柱はソウル・延禧専門学校を経て、42年に日本に渡り、立教大、同志社大で学んだ。

 尹東柱の50周忌に、同志社大では詩碑が建立され、同詩碑建立委員会編による「星を歌う詩人」(35館、97年)が出版された。
(金学烈、朝鮮大学校教授、早稲田大学講師)

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