近代朝鮮の開拓者/芸術家(8)

許 百 錬(ホ  ペンリョン)


 
人・ 物・ 紹・ 介

許百錬(1891〜1977年)

  代々学者の家に生まれる。国の植民地化とともに、日本に渡り苦学の末、南画を学ぶ。31歳の時、「秋景山水」によって名を知られ、その後、制作のかたわら後進の指導に励む。

 

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伝統に忠実な文人画家/「秋景山水」が2等入賞

 これまで紹介した青田・李象範、小亭・卞寛植が、李朝以来の伝統絵画の枠組みから抜け出して東洋画に新しい画風をもたらそうと苦心したのに対し、ここに紹介する穀斉・許百錬は、むしろ伝統に忠実に従うことによって、自己の生きる道を求めようとした。

 つまり、かつての士大夫を自任する文人たちが自己の世界観を、詩・書・画の総合としての南画にその表現を託そうとしたように、許百錬も、これまで自身の学んできたもの、自身の理解を、1枚1枚の絵画に表現しようとしたのである。

 そのように考えるに至った彼の家庭環境と、成長過程を見てみよう。彼の高祖父は、李朝末期に文人官僚として名を馳せた小癡・許維である。彼のすすめで幼い頃から大学者として有名な鄭萬朝(1859〜1936年)に従って漢学を学んだ。先生とともにソウルに上京した彼は畿湖学校に入学するが、なぜかすぐ退学して郷里に帰る。

 翌年、彼は日本に渡り、京都で新聞配達などをし、苦学をしながら立命館大学法学部法科に入学する。ストレスのためか、ドモリが激しくなり友人ともうまく行かない日々が続いた。やむにやまれず、その後は東京に行き、明治大学法学部法科の聴講生となるが、次第に画家となる思いが強くなっていく。

 ついに、南画家として有名な小室翠雲(こむろすいうん)を訪ね、入門する。これまで紹介してきた画家たちが、西洋画を志したのとは全く異なった道を歩み始めたのである。

 しかし、日本に来て7年、「アボジ(父)キトク」の電報によって、帰郷することになってしまった。


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 帰郷した彼は、ソウルに上京し、画家としての道を本格的に歩み出す。1922年、無名の彼が美術界にデビューする日がやってきた。「鮮展」に初めて出品した「秋景山水」が、1等のない2等として入賞した。誰よりも驚いたのは、心田・安中植門下の新鋭たちであった。

 ただし許百錬は、世俗的な名誉や利益を望んではいなかった。30年代の半ばから光州に定着して制作に打ち込み、錬真会という画会を作って後進の養成に邁進し、さらには無等山上に、国民の精神的な拠り所を求めて檀君(タングン)の神殿を建立しようと努力もした。が、最後までそれを成し遂げることができなかった。

 86年の生涯に、彼は約2万枚の画を描いたといわれている。しかしながら彼は、「俺は、まだ1枚も(満足できる絵を)描いてないよ」という。彼の求めてやまなかったユートピアは、国の分断が続く限り、想像の世界においても、形象が困難であったのだ。 (金哲央、朝鮮大学校講師)

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