近代朝鮮の開拓者/芸術家(10)

李碩鎬(リ ソホ)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 李碩鎬(1904〜71年)号は一観、京畿道安城の生まれ。ソウルで金殷鎬の門下生となった後、入北し、彩色没骨画法による新しい朝鮮画を確立する。朝鮮美術大学朝鮮画講座教員、美術家同盟中央委員、朝鮮画分科委員長。

伝統的な没骨画法を確立
創作の自由を求めて入北

 前回の李応魯の親友が一観・李碩鎬である。この2人は、息の詰まるような軍政下のソウルで1949年に二人展を開いている。

 李応魯はその後、圧制から身を守るためにフランスに旅立ち、李碩鎬は南の弾圧を避け、制作の自由を求めて、50年に朝鮮人民軍と共に北に入った。

 

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 彼は、どのような経路を経て共和国の代表的画家として名を馳せていったのであろうか。彼は1904年、京畿道の安城の貧しい農家に生まれた。正規の学校教育を受けられず、伝統的な書堂で初歩的な漢文教育を受けた。その過程で絵画と書芸に興味を持つようになったが、良い先生に付いて指導を受けるには、どうしてもソウルに行かねばならないと思い定めた。

 ソウルでは、当時最も有名な伝統的画家であった似堂・金殷鎬の門下生となり、画法を学んでいった。

 学びながら民族的な画家集団である「書画協会」に参加し、遅い出発であったが29年には「鮮展」に出品もした。

 師匠の穏健な画風と鮮やかな色彩感覚を学ぶうちに、彼は次第に「左傾化」していくのである。それは、日本帝国主義の民族性抹殺政策に対する反感、貧しい生活の中で正義を求める感情の強さなどを反映したものといえる。

 なぜか、43年頃から筆を折り、田舎で隠退生活を送っていた彼は、8.15解放を迎えた喜びを胸に抱いて、ソウルへと向かった。が、米軍政の圧制は日増しに強化されていた。50年、朝鮮戦争勃発を契機に北に入った彼は、社会主義建設と共に豊かで瑞々しい画風を一気に開化、発展させていった。

 

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 伝統的な水墨画の没骨画法(輪郭線を描かないで直接に水墨で対象を描き出す技法)を受け継ぎ、墨によらず鮮やかな彩色によって新しい時代に合う没骨画法を駆使し、花鳥や静物、自然の風景などの絵を大胆に、かつ自由自在に描いていった。

 たっぷりと色彩を含んだ筆の自在な運動によって、対象が、人々の新しい生活感情と美感を反映しながら形象化されたのである。彩色没骨画の独創的な画法の高い水準の完成といえる。

 彼の没後20年を経て、その遺作1000余点が、夫人によって朝鮮美術博物館に寄贈された。そして彼の大型画集も出版されている。画の中には、彼の書芸を生かしたものと、好きな時調の付いたものがあり、自筆による朝鮮文字の印章(30余個)も紹介されていて興味深い。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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