わがまち・ウリトンネ(56)

大阪・猪飼野(1)


野山で採った山菜を売る/解放後、表通りに進出
始まりは路地裏の軒先

 大阪・猪飼野(いかいの)の中心地、生野区桃谷3〜5丁目にまたがる「御幸通朝鮮市場」。猪飼野という地名は73年2月に抹消されたが、今でもその名を呼ぶ人は少なくない。

 このトンネには、在日同胞史が集約されていると言っても過言ではない。というのは、「日本の中の朝鮮」と形容されるように、日本の中で最も早く同胞が住み着き、生活の基盤を築いてきたからだ。 生野区民の4人に1人は同胞と言われ、その数は約3万6000人にもなる。市場周辺に限ると、その比率は3対2と逆転し、市場では7割近くが同胞の店となる。

 日本人は市場を御幸通商店街と呼ぶが、同胞たちは“朝鮮市場“と呼ぶ。1925年7月に開設された鶴橋公設市場(現在の桃谷3丁目)を核にして、順次、東へと発展、現在の市場が形成された。全長は疎開道路から御幸橋までの約500メートル。御幸通西、中央、東の3つの商店会からなる。

 市場には、ホルモンやキムチ、朝鮮料理の様々な食材、そして朝鮮の薬屋から同胞の経営する病院まで、日常生活に欠かせないあらゆる物がそろっている。

 安くて新鮮、ちょっとした相談にも気軽に応じてくれる市場の同胞たち。そのためか、いつも多くの買い物客でにぎわい、トンネ全体は活気にあふれている。

 青果店「山亀商店」を営む2世の黄河石さん(75)は、朝鮮市場の歴史についてこう語る。

 「最初は、路地裏の軒先で、近くの野原や山から採ってきたセリやゼンマイなどを並べて細々と売ったのが始まりだと聞いています。それがいつの間にか、商売として成り立つようになり、やがて本国から取り寄せたミョンテ(明太)、朝鮮語の本、きざみタバコをつめて吸うキセル、そして豚肉などを売り始めたと言います。35年頃には、17〜18軒の店があったそうです。今のように、表通りに同胞が店を構え始めたのは、祖国解放(45年8月15日)直後のことです。日本人が1軒2軒と街から出ていき、そこに同胞が店を構えるようになったのです」

 朝鮮市場の原型ともいえる路地裏を黄さんに案内してもらった。

 御幸通中央の中ほどに、南に向かって入る路地がある。ここが出入口だったそうだ。そこを20メートルほどゆくとT字路に出るが、かつては十字路で、東西に路地があった。現在は東に行く道はないが、その道を70メートルほど進むと一条通に出る。そこまでが、かつての朝鮮市場があった所だという。

 黄さんも、解放直後に市場に店を構えた。それ以前は市場の裏手に住んでいたが、解放直後、酒屋を営んでいた日本人が市場から出て行ったため、そこに引っ越し、青果店を始めた。以来、55年が経つ。
(羅基哲記者)

TOP記事 文  化 情  報
みんなの広場
生活・権利