北海道朝鮮初中高級学校へ、元教師からの手紙(上)
溢れる生命の充実感 小野寺 寛
昨年11月末、北海道朝鮮初中高級学校で行われた公開授業を参観した札幌在住の元教師・小野寺寛氏から同校に手紙が寄せられた。その要旨を2回にわたって紹介する。
昨日はお忙しい中を授業参観させて頂き、ありがとうございました。
さて、私はわずか数時間の授業参観でしたから、それをもって日本における貴国の学校教育のありようを論ずるのは、極めて的はずれになるかと思います。
しかし、ふつふつと沸き上がっている感動をこのまま胸の中にしまいこむのは、やはり勿体ない、時間の流れの中でやがて私の胸の片隅に押しやられることになるのではないか、そんな思いにつき動かされ、ペンをとった次第です。
私が参観したのは、2時間目の、3年生の算数の授業でした。授業を進めているのは、20歳を過ぎたばかりに見える女性教師でした。チマ・チョゴリを纏った姿は凛とし、神々しくさえありました。これは、どこかで見た光景である。さて、どこで…。敗戦直後、全てが混乱と貧困のさなかにあった私の少年時代。生まれかわるべき日本の姿を私たちの前で説き聞かせていたある教師の姿が、私の脳裏に浮かび上がってきたのでした。敗戦後の日本の行く末を見据え、自ら地平を切り開こうとしている私の担任だったその教師と、チマ・チョゴリ姿の女性教師とがいつのまにか二重写しになっていたのです。
こんにち、貴国と日本の間に存在する歴史は残念ながら歪められたままです。1900年代の日本の歴史は侵略の歴史でありました。とりわけ貴国を武力によって併合し、あまつさえ貴国の民族としての誇りを奪い、否、民族そのものの文化を抹殺した歴史は、依然として正しく直視されぬままです。そればかりか、こんにち日本のさらなる海外進出を正当化するため、貴国をひ謗中傷することによって、日本の軍国主義化をさらに押し進めようとしております。しかし、残念ながら真の国際平和を願う日本の運動は極めて不十分と言わざるを得ません。その原因の多くは日本の学校教育に求められます。日本の近・現代史を正しく見据え、子供たちに伝えようとしているか。残念ながら、そのような意識を持ちながら教壇に立つ教師はごく一部分と言わざるを得ません。
展望を見失った国家であるからこそ、今の日本の子供たちは、虚ろな瞳をして漂っているのだと思うのです。札幌の街の至る所に、ただあてもなく佇んでいる若者があふれています。それに比べ、貴校の子供たちはいかに溌剌(はつらつ)としていたことか。私たちを歓迎するという意味を込め披露してくれた歌や舞踊の躍動感、溢れんばかりの生命の充実感…。その時限を越えた「人間賛歌」ともいうべき光景に心を引かれました。
さて、貴国に対して、偏見と中傷が日本のマスコミを通じて流布されていることを、交流会の中で改めて確認させて頂きました。
「独裁国家」である、「軍国主義国家」である、その下で多くの民衆が飢餓と貧困にあえいでいるのだと――。これは、日本の政治権力による世論操作であることは言を待ちません。朝鮮民主主義人民共和国は他国を侵略したか、また、侵略の意図を持っているのか。そして、日本人を含め他の民族を搾取し、虐げたことがあるのか、また、虐げる意図を持っているのか。その視座に立つ時、自己批判をすべきなのは日本の戦後であり、こんにちであると言っていいでしょう。