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儒学教育の私設学校


18世紀には全国に593校も

   書院は、儒学を教育する私立の施設(学校)として李朝時代に整備された。1550年には国王から運営資金と書籍、田畑などが与えられ、最初の「国立書院」が誕生した。


最高教育機関であった成均館

 以後、全国各地に大小の書院が次々と設立され、18世紀の初めにはその数は593にもなった。ちなみに当時の郡県数は329だったから、単純に割り当てると1つの郡県に1校強が存在していたことになる。

 そして、公立の郷校(郡に1校)に代わって学問・道徳実践の修行と賢人、烈士に学ぶ国民教育の場として重要な役割を果たした。大学者、李退渓の陶山書院(礼安)、李栗谷の紹賢書院(海州)がとくに有名である。

 ここで学んだ者の多くが、官僚採用試験である科挙を受験した。

 科挙は新羅時代、788年から中国の唐の制度にならなって始められたもので、十二支の子(ねずみ)、卯(うさぎ)、午(うま)、酉(とり)の年に行われた。

 文官の文科、武官の武科、医学・通訳・天文地理・法律など技術官養成の雑科の3つの分野で実施されたが、もっとも重視されたのは高級官僚への登竜門である文科で、科挙の代名詞ともなった。

 試験は道ごとに行われる初級試験(初試)と漢城(ソウル)での覆試の2段階で実施された。

 文科の初試(小科)は、生員科と進士科の2つに分かれ、「論語」、「詩経」、「書経」など中国の古典である四書五経の試験が行われた。そして、これに合格したそれぞれ100人に初級文官資格と中級試験(大科)受験資格が与えられた。

 大科合格者は、国王の前で第3次試験である殿試を受け、これに合格した33人が高級官僚の道に進んだ。武科も、28人が殿試で選抜され登用された。

 しかし李朝後期になると、試験内容が売買されたりカンニングが公然と横行し、また党派争いの具に利用されるなどへい害がひどくなり、1894年、甲午改革の際に廃止された。

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