わがまち・ウリトンネ(61)

大阪・猪飼野(6)


                                                                                                            校舎建設風景(1961年8月着工) 

48年の学校閉鎖令反対、市警の拳銃発射で少年犠牲
工場を校舎にウリ学校

   猪飼野の中心に建つウリ学校――朝鮮市場の裏手、トンネの中心地にある大阪朝鮮第四初級学校の校歌の出だしである。解放(1945年8月15日)の喜びにわく1世らが、子供たちに2度と「亡国」の苦しみを味合わせまいと建てた。

 同校は46年6月11日に設立された。当時の名称は「在日本朝鮮人連盟生野第十ウリ学校」。同胞の工場を利用した校舎で、120余人が学んだ。当時、生野区には朝鮮学校が10校あった。この地域にどれほど多くの同胞が住んでいたかがうかがえる。

 一方で、同胞たちはよりよい環境で子供たちに母国語を学ばせるため、新校舎の建設に取り組んだ。そして、翌年6月に落成式が行われたのを機に、校名は「御幸森朝鮮小学校」と改められる。

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 正規の民族教育が始まって間もない48年1月、日本を占領していたGHQ(連合軍総司令部)の指示により、日本政府は、同胞に日本の学校教育法、教育基準法に従うことを強要。4月には「朝鮮人学校閉鎖令」を一方的に通達し、「閉鎖」を強行しようとした。

 これに対して同胞は4月26日、大手前公園で「朝鮮人学校閉鎖反対人民大会」を開催。約1万5000人が参加した。

 トンネの長老の1人である張澤煥さん(80)は、御幸森地域民族教育闘争委員会委員長の重責を担い、民族教育の再開に尽力した。

 張さんは、閉鎖反対大会当時のことをこう振り返る。

 「大阪市警は集会後、秩序整然と退場する同胞大衆に、消防ホースで水を浴びせ、拳銃を発射した。その結果、無残にも金太一少年が射殺され、27人が重傷を負う事件へと発展した」

 その後、学校は閉鎖されたが、同胞たちの粘り強いたたかいによって54年、再開にこぎつけた。

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メ     モ

   大阪第4初級管下には御幸森、鶴橋、勝山の3つの朝鮮小学校があったが、再開できたのは御幸森朝鮮小学校のみである。

 
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 同胞たちは61年8月から、木造2階建ての校舎の建設に取り掛かった。だが翌9月の台風で、あえなく骨組みが吹っ飛んでしまう。

 「同胞たちは呆然と眺めるだけだったが、座して見ていても始まらないと、300人の同胞が学校に集結した。そして業者が整備に1ヵ月以上はかかるといった作業を3日間で終え、骨組みを建て直した。同胞父母たちの愛校心、団結力を示す出来事だった」(張さん)

 幾多の苦難を乗り越えてきた同校は、61年、東大阪朝鮮第4初級学校に校名を改め、93年から現在の校名になった。(羅基哲記者)

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