北海道朝鮮初中高級学校へ、元教師からの手紙(下)

足元の国際理解こそ  小野寺 寛


 朝鮮民族の思考を支える物として「恨」という概念があることを伺った記憶があります。過去の虐げられた己のありように、あくまで拘り、その中から己の自立を求めていく。私は「恨」という言葉の意味をそのように教わったことを思い出しています。

 過去、他国によって侵略され、民族の自立を奪い取られた歴史に、徹底的に拘り、その中から民族としての自立を求めているのが、現在の貴国であり、そして、遠く祖国を離れて民族教育に情熱を燃やし続ける貴校の教育ではないでしょうか。

 日本文化の母胎は朝鮮文化であることは誰の目にも明らかです。しかし、残念ながら明治以降、日本が近代化(果たして真の意味での近代化と規定できるか疑問のところですが)のなかで、朝鮮民族を日本人より劣った存在として観る眼が、貴国への侵略と歩調を合わせ競うようにして、私たちの中に定義されました。この差別意識は依然として払拭されずにいることを残念ながら指摘せざるを得ません。

 今日本には、マスコミの世論操作によって、朝鮮民主主義人民共和国を「恐ろしい国、何をしているか分からない国」と見る意識が形成されつつあります。

 これはとりも直さず、貴国を支配していたなかで、日本人の中に形成されてきた「差別意識」がその根底に断固として存在している証しでありましょう。

         

 今、日本の学校教育は「国際理解」という言葉によって新たな展開を見ようとしています。しかし、文字通りの「国際理解」とは程遠く、その狙いは「海外進出」をより強固なものにするための手段としての「国際理解」と言っていいでしょう。

 残念なことに、日本のあまた多くの教師たちは国際理解の名のもとに海外に関心を寄せてはいても、肝心のこの国内において朝鮮民族をはじめとするあまた多くの少数民族(アイヌの人々を含めて)がどのような歴史を背負いながらこの地で生きているかに視点を向けようとはしません。

 言語、文化、習慣の違いはあれ、全ての人間は人間として尊重されなければならないという自明の理を私たちのものにするためには、何はさておき、どのような歴史を背負いながらこの地で生きているのかを子供たちの前に明らかにすることが前提だと思います。

 過去に目を閉じてはならない。過去を直視する中から現在の私たちの立つ場所が見えそして未来が描ける。

 国際理解も国際平和も海の彼方にのみ存在するのではない。この札幌の地において輝くばかりの民族教育を実践している貴校が、まさにお手本である。貴校は、この広大な180万人を超える札幌という大都会にあっては、まさに「点」に過ぎない。

 しかし、私たち札幌の教師たちが貴校の教育に、つまり貴校の教師や子供たちに学ぼうという視点を持つことによって、「朝鮮の中における日本」というとらえ方が内実化されるものと思います。  

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