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〈平壌の高句麗遺跡を歩く-下-〉 高句麗の人々の息遣い

遺跡は歴史の確かな証言者

 平壌での高句麗遺跡の発掘は今年も活発に行われる予定だ。2007年にも平壌城城壁の一部が発掘された。「遺跡は歴史の確かな証言者」だと大城山文化遺跡管理所学術研究員の李定男さん(57)は語る。

破壊された城壁

高句麗時代、平壌城北城の南門として建てられ、1714年に修復された城門

 李さんに案内されたのは平川区域にある万寿台創作社横の空き地だった。空き地には幅が8〜9mほどの石壁がある。

 「これは平壌城の城壁なんですよ」とはいえ、「城壁」を想像するのが難しいほどにその石壁の姿は断片的なものだった。

 「道路の向かい側を見て」と李さんが指さす方にも同様の石壁があった。道路を挟んで真っ二つに断絶された石壁は、元は平壌城外城の城壁の一部としてつながっていた。日本の植民地統治期にここに軍事演習場を作る際に壊されたのだ。

 「三国史記」によると、平壌城は552年から586年まで35年間にわたって築かれた都城。平壌城の城壁は現在の牡丹峰区域、中区域、平川区域を囲んだ。平壌城の内部構図は、牡丹峰区域から中区域、平川区域に下りながら内城の防衛城で宗教関係の施設があった北城、王宮があった内城、中央官庁があった中城、住居区域の外城に分かれた。

 平壌城の周囲は16km(城壁の総延長は23km)だ。平壌城は同じ高句麗の城とはいえ大城山城とはまた違う方式で築かれた。大城山城の場合、王宮である安鶴宮の後方に防衛城として構え、有事の際には王宮から後方の山城に移動して避難した。平壌城の場合は、山城の中に王宮を建てた。平壌の特異な地形を最大限に利用したもので、これによって人々は有事の際の移動の不安がなくなったと李さんは説明した。高句麗全盛期の戸数は、周辺地域を含めて21万508戸に達したという記録が残されている。

「先祖との対話」

 現在の平壌市の5つの道路をつなぐ交差点にそびえる普通門は552年に建てられた。「普通門は『神門』とも呼ばれているんです」と李さんは言う。

 秀吉の朝鮮侵略(1592−1598)の際、平壌城の城門でこの門だけが燃えずに残った。朝鮮戦争(1950−1953)時には、米軍の苛烈な空爆により破壊されたが、戦後、朝鮮政府の文化遺産保存政策によってみごと復旧された。現在の建物は1473年に建て直されたもので、朝鮮に残っている城門のなかでもっとも大きく古いもののひとつだ。中城の西門である普通門は国防上、交通の要衝に位置し、高句麗時代から高麗、朝鮮王朝にいたるまで重視された。

 李さんによると、普通門の元の位置は現在の場所ではない。かつては今より北西方向55m先の普通江沿いにあったのだが、戦後、首都建設のためにこの位置に移された。

 平壌城内城の東門だった大同門の門楼には当時、平壌鐘がかかっていた。日に2回、午前4時と午後10時に鐘を鳴らして人々に時間を知らせた。午前4時の鐘で平壌城の城門が開き、午後10時の鐘で閉じられた。人々は楼閣の下のアーチ型の通路を通って出入りした。正面には大同江が流れ、背面には現在、道路越しに金成柱小学校が建っている。

 「高句麗の人々の姿を描いてみませんか」。李さんはこのように言いながらアーチ型の通路をゆっくりと往復した。記者も李さんの説明をかみ締めながら後ろに続いた。

 「高句麗の人々の息遣いが伝わってきましたか。先祖たちと対話ができる学問がまさに考古学なのです。知るほどに高句麗の存在がとても近く感じられるのです。遺跡は歴史の確かな証言者ですから」(文=呉陽希記者、写真=文光善記者)

〈平壌の高句麗遺跡を歩く-中-〉 牡丹峰の絶景、乙密台、最勝台

〈平壌の高句麗遺跡を歩く-上-〉 檀君、東明王 始祖王の王陵を奉る

[朝鮮新報 2008.1.18]